みんなでワイワイと食事する―。そんな当たり前のことが、当たり前でなくなって2年以上。

形だけのアクリル板や精度の低い検温など、合理性が疑われる社会的制約を強いられています。




ミンナノタメという同調圧力や、シカタナイといった非科学的妄信によって、

僕らは、どれだけ狭い「見えない檻」に閉じ込められ、どれだけ自由を奪われているのでしょう。




日常そのものが奪われる危機的状況に、「書」に何ができるのだろう…と

深く悩みもしましたが、生徒の皆さんが、救ってくれました。


自由に選んだ言葉を、からだいっぱいに書く姿は、

まさに、「見えない檻」から、解き放たれた瞬間だったのです。




3月に開催された書法道場展「解放」では、生徒作品が80点以上展示。

それぞれの「ときはなちのことば」を、烏丸御池の文化財という最高のステージで表現する機会を設けました。




来場者は4日間で900人以上。

会場を何周もする長期滞在者が続出し、たくさんの喜びの声が届けられています。

有難いことに、まさに、「解放」の場になったのです。




書は、いわば「鍵」。「言葉にならない何か」を書くことで、

「見えない檻」を開ける歴史的文化的な装置です。




数千年に渡り受け継がれてきた書の力に感謝しつつ、

来年の道場展開催に向けて、また初心に帰り、基本動作から磨いていきたいと思います。




道場展にご協力いただいた生徒の皆さん、関係者の皆様、

本当にありがとうございました。



おかげさまで、より楽しい道場展が実現でき、

「社会をやさしく照らす」というミッションを、また一つ、達成できたように思います。







私事ですが、四十代半ばにして、スケボーに挑戦することにしました。



スピード恐怖症で、バイクやスノボーといった速い乗り物には、これまで近づくことはありませんでした。

ただ、バランスボードで稽古していますから、もしかしたらスケボーはいけるかも…と、欲が出てきます。



「チャレンジしたいこと」がテーマの2月開催の全国書遊び大会で、

「スケボー」と書いた息子にのっかり、スケボーを購入。とりあえず乗ってみると、すってんころりん。近所の子供達は大笑い。



まるで、ケ石如の篆書のように、見た目からは想像できない難易度の高さじゃないですか。

単純そうなのに、いざやってみると、とんでもなく奥が深い。制御できない速さ、転倒したときの痛さ、怖いことだらけです。



それでも、やっぱり一度は乗ってみたい。

ここは、書の稽古のように、スモールステップで動作を細かく分解、簡単なことからやってみることに。

まずは、片足だけ乗せて、ゆっくり歩くだけ。「カメなみのノロさ」とイジられますが、ほんのり恐怖心が和らいでいきます。



一日30分程度、カメ乗りを続けて三日間。息子のようにターンなどの技はできず不細工ですが、とにかく、乗れるようにはなりました。

「ザザザザザー」とのタイヤとアスファルトとの摩擦感が、揚州八怪・金農の線質(無限微動筆蝕)のようで、なんとも心地いい。



膝裏を抜くと安定したり、上半身を先に捻ってターンするなど、

書道でも求められる筆のような、しなやかで、まとまりのある身体が求められます。



滑らかに、かつ、弾むように自由自在に紙を乗りこなす筆の動きに習いながら、

今日も、ちょっと、スケボーに親しんでみるとします。







「(ほかのクラスで)かんせん者が出たので17日〜21日まで学年へいさがありました。

21の時点で卒業まであと36日なんです。もっと学校に行ってみんなに会いたいです。

家族としかしゃべっていなかったのでこうして手紙を送れるのがとてもうれしいです」



小6の生徒さんからお手紙をよんで、やたらに胸が痛みます。



しゃべりながら食べちゃダメ、みんなでワイワイと盛り上がっちゃダメ、マスクなしに自由に息をしちゃダメ…。

ウイルス災禍になって2年以上、様々な制約が「新たな日常」として押し付けられたものです。

ひとたび「濃厚接触者」という網にかかれば、たとえ元気であっても外出が制限されたり、学校等が閉鎖されたりしています。



ここまでくると、ウイルスそのものよりも、「対策」と名を冠した「呪い」の方が、随分とオソロシイように感じてしまいます。

さすがに、呪いのリスクを危惧する人が増えてきましたが、

いったん無意識に刷り込まれた「呪い」は、絡まった糸のように中々に解けないものです。



どうにかして、社会にまん延する「呪い」を解いていきたい。

「ときはなちのことば」を書として表現することで、押さえつけられている人々の心を解き放っていきたい。

僕は、生徒のみなさんが「ときはなちのことば」を表現する様子を目の当たりにして、

大きく心が揺さぶられ、全身が軽やかになりました。



3月開催の道場展「解放」に参加される皆様、

そして、ご来場いただいた皆様が「呪」を解き、「祝」に転じますように。

そして、思う存分、エガオを放ち合える日常を過ごしていきますように―。








2022年の干支は「壬寅」(みずのえとら)ですね。

そもそも、干支の「干」は幹(根)、「支」は枝(枝葉花実)を意味します。植物の発生から順次変遷し、

その終末に至るまでの過程を干は十段階、支は十二段階に要略し、これを組み合わせて60種にしたものが干支です。




植物の生命変化を表すために利用されてきた干支は、

次第に人間世界の様々な出来事や時勢についての判断にも適用され、

単なる占いではなく、学問として古代からの知恵が集積されていきました。




現代においても、天然自然の摂理にしたがった人間のあり方、

生き方を示すものとして大変重要な意味をもっています。




壬寅の「壬」は「妊」に通じ、植物の果実や穀粒が成熟することで、陰気が極まって陽気が生じる時期です。

「寅」は「演」に通じ進展を意味し、万物が演然として地上に生ずる意です。




そのため「壬寅」は、厳しい冬を越え、新たな生命が芽吹く時期であり、

新しい成長に向かって動き出す年とされています。




2021年「辛丑」(かのとうし)は、痛みを伴う衰退と、新たな息吹が互いに増強し合う冬籠りの年でしたが、

「壬寅」では、ようやく春を迎えられるようです。




上記の「恭賀灯楽」(たいがとら)とは、「新年を丁寧に楽しみ、日常を灯していこう」という意味の造語です。

どうか、皆様の2022年が、豊かに彩られますように―。心より祈っております。






幼少の頃に発育が悪く、言葉が遅れ、字も下手。

26歳で科挙に失敗。以後25年間挑戦し続けるも、ついに及第することがありませんでした。5



2歳になって文章の校閲を司る役人に推薦され官僚になりましたが、

堅物な性格もあって政治の腐敗に嫌気がさし、57歳で退官します。



なんだか、可哀想な人生のように思えますが、

この人物こそが明代の能書家・文徴明です。



25年にわたる浪人時代に、腐ることなく学問に刻苦精励し、詩書画に打ち込み、

やがて、「三絶」とまで称さるようになり、当時の芸術界を主導する重鎮にまで登り詰めます。



90歳で亡くなる際も揮毫中にだったと伝えられ、

その死後も、文徴明ブームが途絶えることがありませんでした。



非才な文徴明が大成した要因としては、

父・文林が息子の晩成を信じて、古文は呉寛、画は沈周、書は李応禎という超一流の人物に学ばせたことや、

祝允明、唐寅、徐禎卿といったセンスあふれる芸術家との交流に恵まれたことが挙げられます。



ただ、唐寅に「傍にいるだけで心が洗われる」と言わしめた高潔温純な人柄で、

ひたすらに自分の楽しみを貴んだ彼の純粋な生き方こそが、最も大きな要因のように思います。




「自分にはできない」と心が折れそうなとき、文徴明の生き様を思い出してみませんか。

たのしくたんたんと工夫を続けていけば、必ず、自分の才能は輝きだしますから。



大人の通学生のみなさんは、11月は条幅課題にトライします。

条幅課題の場合、特にポイントとなるのは「筆脈の通し方」です。




筆脈(脈絡、気脈)とは、点画間の見えない繋がりのことです。

すぐれた書は、字外の筆の動きによって筆脈が通り、余白にエネルギーが満ちています。




初心者にありがちなのは、墨継ぎのしすぎにより筆脈が途絶えてしまうこと。

もちろん、墨継ぎをしなさすぎると線がパサついてしまうので、墨継ぎと筆脈のバランスが肝要です。




コツとしては、

@次の文字の一画目を書いてから運筆の呼吸に区切りをつける、

A字の途中で墨継ぎをした場合は、空で前の点画を書くようにしてから次の点画を書き始める、

B筆の墨持ちが良くなる工夫をする(筆毛の根本までしっかりと墨を含ませるなど)が挙げられます。





唐の太宗は、王羲之の書を「状は断つるがごとくして、還って連なり」とし、

繋がっていないようで繋がっており、切れているのに連続感があるところに、運筆の妙があると評します。




点画が見える線で繋がっていなくても、見えない線で繋がっているように書くためには、筆の空中での運動(空中揺筆)と共に、

運筆における気持ちの持続が大切です。




歌人が自詠の歌を書いたものは、たとえ筆法が稚拙でも、点画間、文字間に気持ち通り、全体に筆脈が通っています。

気持ちを持続するかどうかは、書く言葉に対する感度の高さが大きく関わっているのでしょう。




例えば、「千峰黄葉村」を書く場合、単なる文字として書くのか、

それとも、美しい秋の情景を思い浮かべながら書くのかでは、出来上がりの質が根本から異なります。



先に挙げた@〜Bのような技法を高めていくと共に、ぜひ、言葉に対する感度を磨いていきましょう。







清書を出した後、「後悔の波」が押し寄せることはありませんか(僕は、度々です)。



「反省すれども後悔するな」とは言われますが、墨のつけ方を工夫すれば…あの筆を選んでいれば…等と、

提出してからクヨクヨとしてしまう。清書を出してスッキリした〜という方に、羨望の眼差しを向けたくもなります。



出しても落ち込むことが分かっているので、いっそのこと出さないでおこうか…と投げやりになりそうですが、

部屋の反古紙の山を眺めると、やはり、出さないのはもったいないなぁと思い直したりします。



考えてみれば、清書という「区切り」があったからこそ、自分の書を高めようと創意工夫を繰り返すことができました。

心身を磨き高めるチャンスが与えられました。もし、清書という機会がなければ、だらだらと時を浪費しているだけでした。



そもそも、自分が納得できない清書でも、他人からすれば、案外、クオリティーが高かったりします。

「清書の出来が悪くて」と凹む生徒さんの作品を観て、「めっちゃ、いいじゃん!」と突っ込むことは日常茶飯事。

あなたの清書は、あなたが思う以上に素晴らしいのです。



気に食わない清書を出したくない。その気持ちは痛いほどに分かります。

でも、自分には見えない良さが、その清書には沢山含まれています。

しかも、清書を出すだけで、書は向上します。書は表現行為であり、表現していく度に磨かれていくものです。



清書を出すことも、立派な表現行為です。

外に向かって自己を実現することであり、池に投げた小石のように波紋が起き、小さくとも世界に何らかの影響を与えるなのものです。


「清書は仕上げることよりも、提出することが大切なんだ―」。

そう自分に言い聞かせながら、また、筆を執ってみようと思います。










手本をよく見ようー。

書の世界では日常的なアドバイスです。



ただ、見える人に「見よう」というならばまだしも、

見えない人に「見よう」というのは、少しムチャぶりのように思います。

後者の人には、書いて「見せる」方がよっぽど効果的です。



ただ、見せてもらえなければ見ることができない…では、なかなか芸が磨かれていきません。

稽古の目標の一つは「自分らしい書表現」ですが、それは、「自分らしい見え方」があってこそ実現されるものだからです。



そもそも、書の手本は、目に見える「書かれた文字」に限られません。

目に見えない「書かれ方」―筆の働き方―こそ重要な手本なのです。



「書かれた文字」は「花」のようなもので、往々にして、その美しさに目を奪われ、「根」(書かれ方)には思いを馳せることができません。

「根」に養分が巡るからこそ「花」が咲くように、「書かれ方」に芸が尽くされるからこそ、「手本」として成立しています。



では、「書かれ方」が「見える」ためには、どうすればいいのでしょう。9

月の稽古では、「松風閣詩巻」や「風信帖」の臨書だけでなく、その時代背景や人物像なども学びます。

加えて、手本なしの創作書道にチャレンジしたり、体操や瞑想を通じて互いの身心を磨き合ったりします。



時代の風を感じる、生き様を味わう、自分を引き出す、仲間と高めあう…。そ

んな場に身を置くことが、「見える」ようになるための王道です。今


月も、あなたの「根」に十分な養分が行き渡り、

あなたらしい「花」を存分に咲かせられるように、「土壌を耕す」(場を磨く)ことから始めます。









書史上の最高傑作は?と尋ねられたら、どう答えますか。



ありきたりですが、僕はこう答えます。

中国では蘇軾「黄州寒食詩巻」、平仮名は「寸松庵色紙」、和様漢字は藤原行成「白氏詩巻」と―。



特に、「書中の書」と評される「黄州寒食詩巻」については、早いうちに味見しておきたいところです。

ただ、苦みや辛みなど大人の味が多分にしますから、どこがウマいのかが分からない…と感じるのは仕方がないことでしょう。



そこで、赤ちゃんが離乳食から始めるように、スモールステップで段階的に学ぶことををおススメしています。



まずは、パスタやカレーといった定番料理―欧陽詢「九成宮醴泉銘」―を味わってみましょう。

(ポイントは@「露鋒(筆尖と筆胴の二分法)」とA「三折法(刻法の内包)」、B「構築美(背勢と補空)」)



次に、肉じゃがや卵焼などのお袋の味―王羲之「蘭亭序」「集字聖教序」―に戻ってみましょう。

書の出発点に戻ることで、効率的な学習が期待できます。

(ポイントは@「中鋒」、A「二折法」、B「右上がりや方円の変化」)



最後に、(好き嫌いがあるところですが)肝の煮つけやゴーヤチャンプルーなど

癖のある料理―李よう「李思訓碑」と顔真卿「顔勤礼碑」―も試してみましょう。

(李思訓碑は「上疎下密による不均等構成」、顔勤礼碑は「蚕頭燕尾」がポイント)



そういった段階を踏まえて、「黄州寒食詩巻」を再び味わってみましょうか。

王羲之・欧陽詢・李よう・顔真卿に学び、新たな領域を開拓した蘇軾。



蝦蟇のように身をすくめ、時には、クラゲのように触手を伸ばし、

筆尖を突っ込んだり筆胴でなでたり、文字や行を歪ませたりすることで、

いったい、どんな料理を提供しようとしたのでしょう。






なめらかで、こしがあり、先が効いている…。

あぁ、そんな美しい線で想いを表現できたらいいなぁーと、稽古をします。




ただ、そんな理想はあれども、現実は、がたがた、ぺちゃっ、バサバサ・・・

こんなに思い焦がれているのに、なぜ、美しい線と出会わせてもらえないのでしょう。




筆のもち方、墨のつけ方、道具の選び方…美しい線が遠ざかっていく原因は色々とあるのでしょう。

その場に応じて、対症療法を積み重ねていくことも大切ですが、やはり、根本療法を合わせてやっていきたいものです。




いろんな人の書き方を観察してみると、

横画が凹つくときは脇を締め過ぎ、払い先がバサつくときは筆を握り過ぎ、行が傾くときは目を寄せすぎ―と、

線の乱れには「過剰」が影響することが多いよう。

おおよそ手先の使いすぎという「過剰」ですが、それは、足腰を使わなすぎ「過少」でもあります。




「使う(使わない)」という言葉を選んでしまいましたが、書く際に、じゃあ足腰を「使おう」とすると、コトへの集中が阻害され、

書き方が不自然になってしまいます。大切なのは、「手先だけを使わない」といった意識をかけることではなく、

書く以前における無自覚的な身体の在り方そのものなのです。




書法道場では、ヒモトレなどの意識に頼りすぎないアプローチで、

身体の過剰過少(アンバランス)を、よき塩梅(調和)に導く時間を大切にするようにしています。

(7月31日開催する特別講座「骨ストレッチ書道」では「骨でコツをつかむ」機会を)


美しい線は、美しい佇まいから派生する「果実」です。立ち方、座り方、歩き方、息の仕方・・・。普段の何気ない動作を整えることから、急がば回れで、やり続けていきたいと思います。




上達の近道―。そんなものがあるとしたら、スグに食いつきたいものですね。

早く上達する人は、どんな人なのでしょう。やはり、生まれ持っての資質によるものなのでしょうか。



ところが、自ら資質がないという生徒さんでも、意外や意外、ぐんぐん上達して、

いまやプロとして活躍しているケースは少なくありません。おそらく資質と上達の速度は、あまり関係ないのでしょうね。



では、上達が早いのは、どんな人なのでしょう。ありきたりな答えでしょうが、やはり、「続けられる人」です。

ただ、そう言うと「やる気満々な人」を想像されるかもしれませんが、

やる気に頼りすぎる人は「続けられない人」の典型例。アドレナリンによる興奮作用で「やった感」に酔い、長続きしません。



もちろん、「やる気」を持つことは大切です。

しかし、「やる気に頼らず続ける」ことこそが、上達の近道」なのです



では、どうしたら、やる気に関係なく続けられるのでしょう。

「やる時間を決める」「成果を見える化する」「小さな目標を立てる」など、様々な方法がありますが、今回おススメするのは「ついでやり」。



トイレに便座クリーナーがあると、つい、拭いてしまいませんか(僕はトイレにブラシがあると、つい便器を磨いてしまいます)。

この「ついでに拭く」が続くと、トイレという既存の習慣に掃除という「新たな習慣」がくっつき、

やる気を問わず続くようになります(今や掃除をせずにはトイレを出られない…)。



書の稽古にも「ついでやり」の導入、いかがでしょう。

机の上に筆や墨を常時置いておく、トイレに書史年表を貼っておく、スマホの待ち受け画面を書作品にするなど、いろんな方法がありそうですね。



もし、何かいい方法があれば教えていただけると幸いです。

そうやって、仲間とワイワイ楽しむことが、最良の「ついでやり」でしょうから。





手本を見て書いたけど、どうも、手本とは違う・・・。


古典の臨書をすると、そんな違和感を感じることがあるでしょう(僕は毎回感じます)。

もちろん、人間は機械ではありませんから、完コピはできません。

しかし、見て書いたとは到底思えないほど別物になってしまうことに、強い違和感を覚えるのです。



手本と別物になる原因の一つとして、脳内文字の乱れが考えられます。

長時間の活字閲覧によって脳内文字の躍動が失われたり、早書きによって脳内文字の整斉が崩れたりすることで、

目から入る古典の映像にノイズが入ってしまうような状態です。



情報機器が普及し、迅速な情報処理が求められる現代においては、

活字閲覧や早書きの習慣は生活に組み込まれていますから、

何らかの工夫をしない限り、脳内文字の乱れは進行するばかりでしょう。



ここで、別に脳内文字が乱れたって不便はないと言われそうです。

確かに、PCやスマホに代筆させれば、自分の脳内文字をわざわざ出力する必要はありません。



しかし、脳内文字は言葉の構成要素です。

言葉が思考を、思考が行動を決定づけるとなると、

言葉の前提たる脳内文字の乱れは、決して、無視できないのではないでしょうか。



もっとも、どれだけ乱れても、美しい脳内文字は消えることありません。

だからこそ、現代人でも古典に美しさを感じ、また、自分と古典との乖離に違和を覚えるのです。



機械的な字を書いたり、クセの強い字を読んだりすると、

気持ち悪さを感じるのは、自分の中の「美」が異議を唱えているからこそです。



これからも、「脳内文字は美しい」という前提で、それを健やかに表現するための稽古をします。

書を通じて、自分の「美」と世界の「美」が調和する心地よさを。

 このBeautiful Harmony(令和)の時代に、めいっぱいに味わっていきませんか。 








「書道ってやる意味あんの?」と中学生の息子。
そういえば、僕自身が中学生の頃も、成績や将来にとって全く意味がないと思っていました。
(まさか、大人になっても書道をするなんて、つゆほども想像していませんでした…)。



大した意味を感じず書道を「やらされて」いたのですが、
大学受験や国家資格試験、就職活動や起業など人生の転機の度に、なぜだか、「書道、やっててよかった」と思います。



大学受験も国家資格試験もほぼ独学だったのですが、どちらも短期間で合格。
家族から飽きられるほど物覚えが悪いのに、大学受験や国家資格試験は学校に通わず独学で、しかも、短期で合格してしまいました。

出題範囲の捉え方や覚え方などが臨書の稽古にそっくりで、人一倍サクサク進むことができます。
書道は書き方だけでなく、「学び方」まで磨いてくれていたのです。



就職活動や起業の際には、誰に何を言われようと、ぶれずに思い切った行動をとることができます。
二度書きできない書の厳しさが、決断力や行動力を養ってくれていたのでしょう。



もちろん、ちょくちょく「字がキレイ」と褒められるのも嬉しいですし、
姿勢と呼吸を整える書の所作は、日々の上機嫌も増やしてくれています。


ただ、そういって、書道のよさを息子に伝えようとも思うのですが、
あの頃の自分と同じように、わかるはずがありません。今は、放っておいてみましょう。



  いずれ、これからの人生で「芸は身を助ける」という嬉しさを、何度も経験していくのでしょうから。





3月26日〜烏丸御池で書法道場展を開催します。

それにしても、テーマの「R」。読み方すら知りませんでした。



調べてみれば「@まばゆい、まぶしい」と。

コロナ災禍でどんよりムードの社会にとって、ピッタリのテーマと思いませんか。



「コロナ終息後やりたいこと」とのお題で創作大会をしてみると、

書かれるのは「里帰り」「旅行」「カラオケ」「みんなで集まる」など。



いかに「当たり前」が奪われているか、いかに「日常」を渇望しているのか。

悲壮感すら漂う作品の書きぶりから伝わってきます。



このような緊急事態の中での道場展の開催には、大きなリスクが伴います。

当初は開催をためらいました。ただ、生徒の皆さんの熱意に背中を押してもらえ、やってみようと決断しました。



考えてみれば、明末清初の王鐸や傅山など、激動の時代には「新たな書」が誕生してきました。

今こそ発表の機会を設けなければ、「もったいない」ことは確かなのでしょう。



道場展の目的は「自分が楽しみ、社会を豊かにすること」。

自分の想いを「書」を媒介に身体表現することで、周りを照らしていく機会です。



「R」には「Aひけらかす、みせびらかす」との意味もありますが、決して、自分の技術をひけらかす場ではありません。

他人と比較したり、評価を得たりする場ではありません。



何かのためにと力んでやったことは、得てして、何のためにもならないものです。

「ほんのジョークでつくった」というアプリがFacebookの元だったりもします。

訳もなく楽しんでやっていることの中にこそ、本当の「ため」が潜んでいます。



今回も生徒の皆さんが、ただただ作品制作を楽しんでくれました。

それぞれの作品が心地よく輝いています。その「ひかり」を、ぜひ、受け取りに来られてください。








あけましておめでとうございます。



おかげさまで、2020年の子年は「音澄美紐宙」な稽古を実現できました。

生徒の皆様、関係各位の皆様に、心より感謝をしております。



2021年は「辛丑」(かのと・うし)。

「丑」は「芽が種子の中に生じるも、まだ伸びることができない状態」とされ、

「辛」は「痛みを伴う幕引き」と言われます。



しかし、「説文解字」には「丑は紐(はじめ)なり、十二月(旧暦)万物動き、事を用いるに手をあげるの時なり」と、

「漢書律暦志」には「子に孳萌(じぼう)し、丑に紐芽(ちゅうが)す」と記されています。



「丑」は、「何かが始まる前触れの状態」であり、エネルギーが満ちた状態を表します。

「辛」は、「金の弟」(かのと)であり、タイヤモンドなどの宝石のように磨けば洗練される性質を有します。

ここから、「辛丑」を「人生が大きく好転する前夜」と捉えてみてはいかがでしょうか。



書法道場における「辛丑」は、「心身の健やかさ・文化的な楽しさを味わう場」を、

皆様の力を借りながら、さらに磨き上げていきたいと思います。



もちろん、「丑」は「紐」ですから、ヒモトレと書道の融合も、さらに深化させていきます。



伸び悩むこともありますが、今日も、『初』心に戻って『始』めてみましょう。

『猛』烈に頑張りすぎることなく、牛の歩みでボチボチと、自分にとって『望』ましい場所に進んでいきましょう。



『初始猛望』と書いて『うっしモーモー』。

皆様の日常が、『初始猛望』(うっしモーモー)と笑顔に包まれるよう、心よりお祈り申し上げます.