2020年は今月でお終いですね。
みなさん、どんな一年を過ごされましたか。
書法道場では、「終わりよければすべて良し」と、みんなで書き方の大掃除をしていきます。
個性が氾濫し情報過多の時代を生きる私たちの書き方には、
知らず知らずのうちに「よごれ」(悪癖など)がついていくものです。
それに気づかせ、削ぎ落す方法としておススメなのが、
趙孟ふは、書道史上初めて書を「習字化」した人物と言われます。
近づきがたい王義之書法を、一日一万字と言われる徹底的な臨書によりアク抜きし、
近づきやすいものに再生しました。
代表作「玄妙観重修三門記」や「前後赤壁賦」の明るく伸びやかで、透明感に包まれた書を臨書してみると、
いかに自分の書き癖が強いか、いったん原点(王義之書法)に戻ることの大切さを痛感させられます。
「芸術性に欠ける」と明代の董其昌などから痛烈に批判され、
確かに、顔真卿や蘇軾の書と比べるとおもしろ味が足りないようにも感じます。
しかし、あえて自分の色をつけないという趙孟?のスタイルも、ひとつの芸術の在り方ではないでしょうか。
趙孟?の書は、万人向きのやさしい美しさをもった習字的な書です。
しかし、よく観ると、やはり、書の習熟度は極めて高い。
歴史上名高い四人の楷書の名手を「顔柳欧趙」(がんりゅうおうちょう)と呼ぶことがありますが、
唐代の書法の大家(顔真卿、柳公権、欧陽詢)以外で入っているのは趙孟?だけです
ひとまず、趙孟ふの「やさしさ」に触れながら、自分の「よごれ」(余計なこだわり等)などをお掃除していく時間を設けてみましょうか。
どうか皆様が、2020年を「すべて良し」とスッキリ終え、心地よく新年を迎えられますように。
同じ文字を見て書いたのに、人によって、ここまで違うのか−
そう、日々の作品添削で驚いています。
「手本通りに書く」と言葉にすれば簡単そうですが、
特に、臨書において「手本通り」というのは、人生の全てをかけても不可能なほど、至難の業なのでしょう。
目に入る手本の文字は、感覚や経験といった何層ものフィルターで濾しとられ、
幾重の味付けを施されながら「脳内文字」として再構成されます。
「書く」という動作により出力されるのは、手本の文字ではなく、この脳内文字の方です。
書を高めるには、出力(書く)の向上も必要ですが、入力(脳内文字)が乱れていれば、いかに出力を磨いても、なまくらのままです。
現代人の書き方には、脳内文字の「活字化」が著しく表れています。
手書きの手本を真似て書いたのに、活字のような書き方になる例は、枚挙に暇がありません。
大量の活字情報に接する現代の生活においては、仕方がないことだとも言えます。
しかし、思考や行動は脳内文字(潜在的な言葉)に影響を受けます。
脳内文字の活字化は、普段の思考や行動をも、活字のように硬直的なものに塗り替えてしまう恐れがあるのです。
では、どうすれば、脳内文字の過度の活字化から脱却できるでしょうか。
いわゆる「目習い」は、やはり、効果的です。もっとも、単に沢山の手本を見るだけでは、スグに活字に上書きされてしまいます。
大切なのは、入力の仕方、見方そのものを深めることです。
「整斉中参差(しんし)あり」という言葉は、見方を深めるための絶好のヒントでしょう。
「整斉」とは揃っていること、「参差」とは揃っていないこと。
要するに、「揃っているのに揃っていない」「揃っていないのに揃っている」ことが、活字ではなく「書」であるための条件なのです。
活字は「整斉」に偏ります。活字化する脳内文字を変えるには、手本に表れる「参差」(ゆらぎ、うごめき)に注目してみましょう。決して、難しいことではありません。書に限らず、あなたが美しいと感じる身近な景色の中には、必ず「参差」が含まれていますから。
書法道場師範 武田双鳳
ヒトが右手で書くならば、横画が右上がりになるのは「自然」である−。
そう、古来から言われてきました。
九成宮醴泉銘のような6度ほどに右に上がる横画は、
元来ヒトの身体に備わっている動作のひとつですから、何もしなくてもできるはずです。
ところがです。 上がりすぎたり上がらなすぎたり…横画右上がりが不自然になることが少なくありません。
そのような場合は、もちろん。横画の右上がりの練習も必要になってきます。
ただ、本来的にできることなのに、できないというのは、身体の不自然(違和)が原因かもしれません。
本来不要なはずの技術的な練習に頼るばかりでは、根本的に解決になりません。
たとえ、横画が美しく書けるようになっても、ハネや払いの練習は別途必要になってしまいかねない、
その場限りになってしまうような小手先の練習はできれば避けたいところです。
より大切なのは、「筆蝕6要素」(起筆・送筆・終筆・転折・ハネ・払い)に不自然を生じさせる原因、
身体の自然性を阻害する何か(立ち方、座り方、息の仕方などの違和)に、アプローチすることではないでしょうか。
書法道場では、例えば、椅子に座る際、
お尻の一点で身体を支えるような座り方をする場合には、足にヒモを巻いたりします。
《お尻一点座り=脚が浮く→骨盤が傾く→そり腰または猫背→肩甲骨もロック→右上がりの阻害》
というケースにおいて、起点たる脚の問題は、ほぼ無自覚の領域です。
そこを、自覚的努力のみで解決しようとするのはお門違いですから、
このような場合、無自覚の偏りにアプローチするヒモトレは便利でしょう。
健康の「健」の字には、「聿」(筆・いつ)が組み込まれています。「健やか」とは「聿やか」、
つまり、筆のような身体であることを意味します。
身体が筆のように全体として纏まり、しなやな弾力を感じる心地よさこそが、
すなわち、書が書であるための「標」なのです。
書の美しさの起点は「腰の入った線」です。
そこから生まれる深度・速度・角度の筆蝕三重奏が、豊かな書表現を生み出していきます。
だからこそ、書法道場の稽古では、飛んだり跳ねたり、時には、ひっくり返ったりしながら、
「腰の入った」心地よさを味わう時間を設けています。
とはいえ、筋トレのように身体に負荷をかけることはしません。
書は負荷を外し、身体を軽やかにしていく所作です。
重さを重さとして受け取る筋トレと、重さを軽やかな動きに変える書とでは、その方向性は相容れないでしょう。
「腰の入った線」という身体性(肉筆性)を、最初に書で表したのは書聖・王義之(307〜365年頃)です。
代表作「蘭亭序」では、篆・隷書体ではできなかった人間の生き様の表現を、
二折法(自然筆法)という身体性によって可能にしたのです。
リズミカルな運筆で書に「韻」(ひびき)を与え、三折法という「法」(ことわり)の完成へと誘った王義之の書きぶり。
それを私たち現代人にフィードバックすれば、
きっと、古代人の身体性(流麗な動き)が、今の身体に引き出されていくのでしょう。
書は、言葉に生命を与える営みです。生命は身体に宿ります。
書を実現するには、自分の身体という最も身近な大自然の聲を聴く機会が、どうしても必要なのです。
王義之は、いったい、どのような身体の聲を聴いていたのでしょうか。
≪「言葉」−「書」−「身体」≫を通じて生に「命」を与えていく営みを、
みんなで存分に楽しんでいきましょう。
手本を見て、ひたすら書く−。書道(習字)といえば、そんなイメージが浮かんできませんか。もちろん、「見て書く」(臨書)は大切な稽古。決して、疎かにはできません。
しかし、いつしか、見て書くことが流れ作業のようになり、稽古(臨書)ではなく単なる儀式(コピー)となっているケースは、書道においては稀なことではありません。
なぜ、儀式化しやすいのか。「書く」に付随する「やった感」(達成感)に、酔ってしまうからではないでしょうか。書けば書くほどに分厚くなる紙の束は、稽古の効果があるか否かに関わらず、「やった感」を生みます(それが、稽古として成立しているかどうかに関わらず)。そうやって、手段であるはずの「書く」が目的化し、「ひたすらに書いているのに、その場に留まり続ける」という奇異なはずの現象が、当たり前の光景になってしまうのです。
書法道場では、稽古の儀式化を防ぐ手立てを、常時、稽古に組み込んでいます。先月の稽古では、特に「記憶」を重視しました。「見て→書く」の間に、「覚える」(覚えようとする)を挟めば、「酔い覚まし」の効果が生じます。手本を見て書いたのに、体が覚えていない(手本なしで書けない、すなわち、身に付いていない)ことに、気づかされるからです。
もっとも、家族の電話番号ですら「覚える」から「調べる」になった現代人が、記憶の力を借りるには、前提として「覚え方を覚える」ことも必要でしょう(誰かに説明する、グルーピングする等)。ちなみに、「地に足がつく」ことも記憶法の基礎ですから、体操の時間も大切にしたいものです。
さて、4月から在籍されている生徒の皆さんは、覚えておられるでしょうか。「永字八法」+「補足十二法」+「追加12側」(合計32の基本書法)を。最も基礎的な記憶術は「繰り返し」。今後、ことある毎に、基本書法を尋ねていきます。決して、嫌がらせではなく、より書の愉しみを深めて欲しいからです。どうか、苦虫をかみ潰したような顔をされないように・・・。
私たちが、情報社会に生きるいうことは、
自分の存在は情報=記号として捉えられているということです。
人間は、年齢や学歴などで十把一絡げにできない存在であるのに、
一元的に記号としてパッケージされています。
しかも、記号化される側だった私たちが、
いつのまにか、知らず知らずのうちに自らの存在を記号と化していってしまっていることに、
一種の恐ろしさも感じます。
文字の世界においても、手書きの「記号化」 ―文字を、記号のように直線的に書こうとする傾向−が、著しい。
そもそも、名前を構成する漢字や仮名文字は、
花々のように様々な造形美を有し、血管のように躍動するものです。
ところが、造形の多様性や線の躍動性を、
手書きにおいても全て捨象しようとしてしまうのです。
記号的な書き方は丁寧で良いとも言えますが、あまりに硬直的な書き方をする人は、
例えば、(本来は曲線的な)背筋も真っすぐにしようとします。
その無理やり直線にしようとする姿勢は、考え方にも表れます。
ひたすらに頑張らないと報われないと信じ、ひたすら頑張れない本来の自分を無自覚的に否定します。
自己記号化による本来の自分と乖離が進めば、
いつか、自分が無色透明な「記号人間」に設定されてしまい、虚しさに覆われるようになります。
人類史上最高に便利な社会に暮らすのに、生きづらさを感じる人が多いのは、
記号化していく自分と、記号化できない本来の自分との葛藤によるものかもしれません。
ひとつ提案があります。名前を「書化」(脱記号化)しませんか−と。
「書化」つまり、様々な書風を名前に取り入れるのです。
難しくはありません。5歳の生徒さんでも、コツを教えたらスグにできました。
「カリッ」とか、「ふわっ」とか、とりあえずアバウトでOK。
何回か試すうちに、たった名前にすら多様な美が含まれ、
到底、記号化することができないことに気付きます。
そうなれば、無自覚な自己記号化による虚しさは、やんわり解消されるでしょう。
いかがでしょう。
服を着替えるように、まずは、マイネームの書き分けを。
ちょっと、試してはみませんか?
ソーシャルディスタンス、三密回避…政府の推奨する「新しい生活様式」なるものが、声高に叫ばれています。
当道場においても、接触防止や消毒換気などの感染予防対策を、生徒さんに協力を仰ぎながら実践していきたいと思います。
ただ、フェイスガードとマスクを装着した上に教壇をアクリル板で仕切る学校の授業や、
立入禁止の黄色いテープでグルグル巻きにされた公園の遊具など、今の状況は、集団パニックと言われても仕方がない状況なのかもしれません。
このウイルス禍は、「人間とは何か」という根本的な問題も突き付けているようにも思います。
「人間」は、「ニンゲン」とも「ジンカン」とも読むのですが、ウイルス対策の旗印の下、ジンカン(人と人の距離)をとりすぎるあまり、
ニンゲンらしさを失わせてしまう恐れは拭えません。
確かに、誰だって病気には罹りたくはないでしょう。ウイルスがまん延しないよう、各人で手洗い消毒などを徹底すべきです。
だからといって、人間は、病気に罹らないために生きているわけではありません。
何のために生きるかは、それぞれが決めるべきことです(個人の尊重・憲法13条前段参照)。
なのに、感染防止のためだけに、一律にライフスタイルを変えようとする風潮には、やはり、無理があるのでしょう。
どうか、ウイルス禍が、「人間万事塞翁が馬」となり、僅かでも幸せに転じますように。
そう強く祈りつつ、皆さんのライフスタイルを豊かにしていくお手伝い、今月も続けていきたいと思います。
書法道場師範 武田双鳳
※憲法13条前段 すべての国民は、個人として尊重される。
※人間万事塞翁が馬…一般的には、「幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではない」というたとえ。
確かに、動物的に生きる上で、「書」は、不要不急の類いです。
しかし、人間が人間らしく生きる上で、不要不急と切り捨ててしまうことに、どうしても、恐ろしさが拭えません。
書は「命」に関わりません。
しかし、書は、人間の「魂」に、直接関わるのです。
書は、その人の想いや生き様をコトバに化体させることで、
他者との間で「魂の共鳴」を起こすという、3000年の歴史が磨いた文化的装置です。
書が途絶えるということは、「魂の共鳴」、つまり、他者との関わりの中で立ち上がる、
自分の「ありか」を実感する機会を、またひとつ、失ってしまうことなのです。
だからこそ、このウイルス災禍のなかでも、書を途絶えさせて欲しくない。そこで、自宅でも書を…と、
解説揮毫動画配信や個別添削指導、書道道具のお届けなど、在宅書道を支援するサービスを次々と始めています。
有難いことに、その支援に対する温かいお手紙を頂戴し、
まさに「書」による「魂の共鳴」を、図らずして実感させてもらっています。
果たして、他者との触れ合いを抑止し、不要不急を排除していく社会に、未来はあるのでしょうか。
人間が人間らしく生きることは、いったいどのようなことなんでしょう(憲法25条第1項参照)。
書法道場は、「書」を楽しむことで魂の共鳴を起こし、未来を豊かに生きる「希望」を育む場所です。
今月も、そんな「場」を、みんなでコツコツと磨き続けていこうと思います。
書法道場師範 武田双鳳
※憲法第25条第1項
すべて国民は、健康で「文化的」な最低限度の生活を営む権利を有する。
新型コロナウイルスによる災禍がおさまりません。
「パンデミック」という通り、世界中で感染爆発が起こり、(執筆時点で)東京のロックダウンの可能性も高まっています。
書法道場のある滋賀と京都も、他人事ではありません。
当道場における対策としては、
政府推奨の感染予防策(三つの密を避ける、手洗い消毒、咳エチケットなど)の実施を徹底します
(ドアノブ等の消毒や換気の徹底、席の配置換えによるパーソナルスペースの拡大など)。
生徒の皆様においても、入室時の手洗い消毒や、咳やくしゃみがでる場合のマスクの着用、
こまめな水分補給等、ご協力をお願いします。
自粛の圧のため、休業する教室も増えていますが、当道場は通常通り稽古を行う予定です。
当道場の稽古は、効果的なコロナ対策といわれる「免疫力の向上」を実現するものであり、
、必要な対策を講じつつ、稽古は継続した方が「身のため」だと考えています。
書を楽しめば、ストレスは解消され、血流も改善します。
そして、何よりも、日々をイキイキと過ごす(≒免疫力を維持する)手がかりを得ることができるのです。
また、新型コロナウイルスによる健康被害は大変恐ろしいものですが、
人々の過度の不安によるパニックは、それ以上に恐ろしいものかもしれません。
食料品の買い占め、過剰な自粛要請、感染者への個人攻撃など、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。
そこで、書法道場としては、手洗い、咳エチケット、濃厚接触防止、免疫力向上といった
一般的な感染予防策に加えて、パニックに陥らないための「心洗い」も推奨していきます。
かといって、特別なことをするわけではなく、いつも通り書を楽しんでいきます
(ただ、「心洗い」を頭の片隅に置いておいてもいいかもしれません)。
書で心を表すことは、すなわち、心を洗うこと。
書は、心に巣食うパニックの種(過度な不安等)を、やさしく癒し、中和してくれる石鹸のようなものです。
ウイルスを「正しく恐れる」ために「書を楽しむ」。一見、矛盾しているようですが、書を嗜むうちに分かります。
このウイルス災禍と自分の間に、ほどよい距離感が生まれますから。
生徒の皆さんが「コック」として腕をふるって、京都の文化財を書作品で味付けする書法道場展。
第5回目は、どんな「コース料理」を味わえるのでしょう。
テーマを「祝(はふり)」にしたのは直感ですが、
理由を挙げてみるならば、「呪」(「祝」は同源)、「葬」(「祝」(はふり)と同音)といったダークサイドと表裏一体の関係・・・
というスリリングさに惹かれたからでしょうか(漫画「ノラガミ」の「祝の器」のように)。
もちろん、「祝」はポジディブな言葉で、「めでたいとして喜ぶ」、「心身を清らかにする」といった意味。
ただ、闇があるから光は輝き、余白があるから墨色が冴えます。
とにかく前向きに〜と、ネガティブを顧みないポジティブは、まさに「カラゲンキ」。元気が空っぽになります。
「祝」も同様で、「呪」や「葬」があるからこその「祝」でなければ、「カラハフリ」となって、その色はくすんでしまいます。
大切なのは、ポジティブでもネガティブでもない、祝でも呪でもない「ニュートラル」の状態に立ち戻ること。
そう言われて、「ニュートラルにしなきゃ」と自縄自縛したとすれば、
「心構え」だけで何とかしようという傾向が強い(心が前すぎる)ことの表れかも。
ならば、「身体が前」と、まずは「身体構え」(呼吸や姿勢)を整えてみるといい。
全身を筆先に通すことで心を開放する「書」は、まさに「カラダガマエ」を整え、「ニュートラル」に導く道具なのです。
有難いことに、今回の書法道場展には、100を超える出品がありました。
ウイルス災禍で、ダークサイドに傾く今だからこそ、
みなさんが「コック」として、命を輝かせて仕上げた「コース料理」は、社会にとって栄養満点の「ごちそう」です。
お腹を空かせた多くの人に、ぜひ、書の美味しさを分け与えていきましょう。
自分を他人と比較することは、いいことなんでしょうか。
「他人と比較するな」といったアドバイスも出回っていますが、
幼少の頃から、天才の兄と比べられてきた自分としては、少し考えるところがあります。
例えば、SNSで「いいね」の数を競うように、
他人との優劣を比べることで、やる気を奮い立せることができるかもしれません。
しかし、優劣の比較ばかりでは、
いつか燃え尽きてしまい、結局、虚しさに覆われてしまうように思います。
だからといって、他人と比較を放棄することは、
人間社会に生きている以上は、難しいことでしょう。。
そこで、虚しさを生む比較の仕方を変えて、
より健やかさで満たされるよう仕向けられないものでしょうか。
書法道場では、「他人の書は最高のお手本」という前提で、
積極的に他人の書き方との比較を行います。
その際、まずは、優劣の評価を極力控え、
間違い探しゲームのように、事実として異なる箇所を探していきます。
そうやって書き味の違いを比べていると、
自分にはない「美」が他人の書から発見され、思わず、褒め言葉が、漏れ出てきます。
同時に、灯台下暗しだった自分の個性(クセ・偏り・過大・過少など)に気付くこともできます。
自分一人では、決して見えなかった「伸びしろ」が、他人との比較によって如実にあぶりだされていくのです。
「羨む」のではなく「尊ぶ」。「妬む」のではなく「称える」。
「他人の書は最高のお手本」という比較の前提は、他人にも自分にも、自然な敬意を払うようにするものです。
この比較の前提が書道以外の日常に広がれば、
他人と比べる生きづらさが、健やかさを生み出すタネとなっていくのかもしれません。
書法道場師範 武田双鳳

新年、あけましておめでとうございます。
今年は「子年」ですね。
子年は、「新しいチャレンジを始めるのにふさわしい年」であり、
「人生の流れを大きく変えられる年」といわれます。
その理由を3つ挙げてみると、
@ 「子」の字が、「終わり」を意味する「了」と、「始まり」を意味する「一」で作られている。
A 「漢書」律歴志によると、「子」は「孳(し)」(「ふえる」の意味)で「種子から芽が出た状態」、
つまり、「新しい生命が萌(きざ)し始める状態」をいう。
B ネズミは大黒様の使い。大黒様の祭は「子祭」と呼ばれ、子月子日に行われる。
この日は「大黒」で、言いかけでは「太極」となり、物事の流れが大きく変わる日だとされる。
もし、言い伝え通りならば、新たなチャレンジをしたくなってきませんか。
十二支の流れにのって、「よし、やろう」と決断し宣言すれば、
未知への冒険に向かうようで、ワクワクしてきませんか。
もちろん、「このままでいい」も素晴しいことです。ただ、普段やらないことを、勇氣を出してやってみれば、
自分という存在の豊かさを、また違った角度から実感できたりします。
書法道場は、これからも、
書の力を借りながら生徒のチャレンジにエネルギーを与えていきたい。
それと共に、より稽古が充実するよう、
小さくとも新しいチャレンジを、日々積み重ねていきたいと思います。
子年は「一陽来復」。「冬が去り春が来る年」とも言われます。
2020年は、どんな「春」で、僕らの日常が彩られていくのでしょう。
書法道場師範 武田双鳳