書は「美」を表現する手段の一つです。

「美」の字源は「羊と大とで肥えた羊」とされ、生命の充実を表すものです。




古来より、「美」に欠ける字は「病筆」とされ、東晋の王羲之の師・衛夫人の『筆陣図』には、

「無力無筋なる者は病なり」(字に骨力や筋力がないものは不健全である)とあります。

心と身体が健全に働き、筆の性能が十分に発揮しなければ、その書は「病」とされるのです。




病筆の例として「八病」(牛頭・折木・柴担・竹節・鶴膝・蜂腰・鼠尾)が有名ですが、

その他にも「墨猪・肉鴨」(肥えすぎた筆画)、「枯骨断柴」(やせ衰えた筆画)などがあります。




この病筆を拗らせると、「死筆」にいたります。死筆とは、筆の提按(あげ・さげ)やそれに伴う太細の変化がなく

、筆で塗りつけたり、引きずったりするだけで、少しも筆鋒の抑揚頓挫の活躍のない点画のことをいいます。




では、「病」から抜け出し「美」に達するためには、どうすればいいのでしょう。

衛夫人の同著には「多力豊筋なるものは聖なり」ともあり、

骨力や筋力が豊かな字が「聖」、すなわち、美の原点とされています。「多力豊筋」なる書の実現について、




蔡よう『石室神授筆勢』には「筆を下すに力を用ふれば、肌膚これ麗し」とあり、運

筆の際に筆尖に全身の力が透れば、点画が生命力で充ち、線の肌の色つや美しくなるとします。




このように筆力を充実させるためには、

筆の持ち方(提腕法や枕腕法など)や運び方(蔵鋒や蹲筆など)といった用筆法の稽古が必要です。

しかし、前提としての身体性が欠けていれば、用筆の練習は薄まってしまいます。




前漢の楊雄の『法言』に「書は心画なり」とある通り、書は心が発露された表現物です。

「心」は「身」であり、立ち方や座り方、息の仕方といった普段の動作によってこそ形成されていくものです。




書における身体性は「自然性」であり、

筋トレのように鍛えたり加えたりするものではありません。



そもそもから身体に備わる内なる自然の心地よさを感受しながら、

しなやかでまとまりのある筆と調和し、旋律を奏でていくものなのです。



(関連記事)https://ameblo.jp/takeda-souhou/entry-12770429649.html


師範 武田双鳳 2022.11







大人の全国競書大会「たなばた展」(ふたば書道会主催)の結果が発表されました。




全国最優秀・双葉賞2名、特選2名、秀作6名、佳作11名と、

今年も多数の入選者を輩出することができました。

ひとえに、子供の生徒さんも含め、皆さんが「高めあいの場」を熱心に作ってくれたおかげです。




入賞は稽古の「目当て」(目的)ではなく、「励み」(手段)のひとつにすぎませんが、

カネなし、コネなしの完全実力主義の大会で結果を出すことは、本当に素晴らしいことです。




「たなばた展」は基本的に「上手い書大会」(技術的高さを競う大会)でしたが、

これから、「いい書の発表会」=「書法道場展」に向けて動き出します(2023年3月中旬烏丸御池「しまだいギャラリー」)。




ここでの「いい」には上手いだけでなく、スゴイ、オシャレ、カワイイ、オモシロい…など、

様々な味わいが含まれます。難しく考えることも、遠慮することも、経験や実力も一切不要です。

とにかく、自分のらしさや生き様を「書」として、思い切って表現するのです。




もちろん、前提として「書的素養」が欠けていれば、蚯蚓(きゅういん)筆法(=みみず書き)だらけの単なる「落書き」になってしまいます。

「自由に書く」といっても、古典(歴史に磨き抜かれた書法)を身につける稽古を怠ることはしません。




古典修得にとって臨書は不可欠ですが、臨書は自運(創作)を通じてこそ本物に近づきます。

達人・王鐸は1日臨書して1日創作(自運)する生活を生涯続けたと言われています。

臨書と創作は表裏一体であり、自らの書を発表することなしに書法が磨かれることはないのです。




幸運なことに、個性豊かな生徒さんが道場に集まってくれています。

ぜひ、皆さんの素晴らしい花を、ぜひ、ぶわぶわぁ〜っと豊かに咲かせて欲しい。




一度きりの人生、「書」を介して、満開にしていこうではありませんか。



※「自運は服古に在り。臨古は須く我有るべし」(王じゅ)…自運はただ勝手に書くのではない。今まで習った古法が支えてくれるのである。古典の臨書は単なる模倣ではない。その人の本来の力を引き出すものである。


師範 武田双鳳 2022.10









書道の異名としては、臨池や換鵞、水茎のほかには、

「入木」があります(「じゅぼく」又は「にゅうぼく」と読みます)。




中国では通常「入木三分」と言われ、

「筆力が沈着で強勁なさま」や「学書の工夫が精深なたとえ」などと解されています。




「入木」は、東晋の書家・王羲之の故事とされています。

『書林紀事』には、「羲之が木の板に書いたお祝いの文章を、別のお祝い文に書き改めようと大工がその板を削ってみると、

墨の跡が三分(約0.9p)の深さで木の板に沁み込んでいた」とあります。




王羲之の書線の深さや筆力の勁さを称えるものですが、

書の技法の本質について、非常に大切な示唆をしているように思います。




先月、「力透紙背」について書きましたが、書は、決して平面的ものではありません。

深い・浅い(深度)が存在する立体的なものなのです。




書法道場の稽古において、書かれた紙の裏を覗き込むのは、

その書き方が「書」であるかどうかを決定づける証拠が、紙背にあるからです。




「白虎」のような薄目の紙に書いて、もし、横画の間や払い先などが白飛びしていたら、

竹節や折木、撒箒といった「病筆」の可能性が高く、優先的に「治療」すべきところなのでしょう。




空海は入唐中、木に文字を書いたところ、墨が二寸五分しか染み込まず、ありきたりな筆力だと蔑まれたそうです。

そこで、山ごもりをして修行をし、五寸も染み込ませるような重く深い線を習得。

「弘法大師」や「平安の三筆」とまで称されるようになりました。




奥にまで染みるような書き方をするということは、それだけ、ひとつの言葉を大切にするということです。

言葉を大切にできない人は、現代社会の過大過多な情報に振り回され、いつまでたっても宙ぶらりんな生き方となってしまうでしょう。




出会った言葉を、心の奥底にまで「入木」できているのか。いまいちど、紙の裏の墨色を、しっかりと観察してみたいものです。




師範 武田双鳳 2022.9